李賀騎馬図(部分) 金有聲画 慈周賛(1764年)両足院蔵
2013年高麗美術館特別展
Korean Envoys in Japan, Meeting in Kyoto
조선통신사와 교토, 정성의 교분
朝鮮通信使と京都
「誠信の交わり」への道―松雲大師と雨森芳洲―
○趣旨
室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮国王の使者である「朝鮮通信使」が日本を訪問し、
様々な足跡を残しました。文禄・慶長の役で一旦緊張化した両国の国交回復は、朝鮮の義僧・
松雲大師(1544~1610年)による京都伏見での交渉を機にその礎が築かれました。朝鮮側
の名付けた使節の名称は日本の状況を探るという「探賊使(たんぞくし)」にはじまり、被虜
返還の意義を担った「回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)」、そして将軍襲職祝賀の命
を帯びた「朝鮮通信使」というものに段階的に変化していきます。
このたびは歴史の舞台として常に重要な位置付けにあった京都に焦点を当て、京の名刹に伝わ
る書画や詩文、通信使ゆかりの高麗茶碗などから朝鮮文士と京都の人々との交流を偲び、雨森芳
洲(1668~1755年)の唱えた隣国との「信(よしみ)」について文化的な視点から考察します。
○主 催 公益財団法人高麗美術館
○会 期 2013年10月19日(土)~12月23日(月・祝)
月曜日休館(11/4、12/23は開館)、11/5(火)は休館 期間中展示替あり
○顧 問 上田正昭(高麗美術館館長・京都大学名誉教授) 李元植(元近畿大学教授)
○監 修 仲尾 宏(高麗美術館理事・京都造形芸術大学客員教授)
○後 援 松雲大師顕彰会 朝鮮通信使縁地連絡協議会 芳洲会
○協 力 岩屋寺 建仁寺 興聖寺 古梅園 相国寺 正傳永源院 真浄寺 慈照院 大徳寺
妙喜庵 龍光院 両足院 霊洞院 尼崎市教育委員会 大阪府立中之島図書館
大阪文化財研究所 大阪歴史博物館 京都工芸繊維大学附属図書館 京都国立博物館
高月観音の里歴史民俗資料館 天理大学附属天理図書館 野村美術館 大和文華館
個人所蔵家
〈展覧会チラシ〉
朝鮮通信使と京都 チラシ表
【関連イベント】
●高麗美術館マダン講演会 (土曜日開催14:00~15:30)
「朝鮮通信使と京都」
①10月26日(土)「四百年前の日朝国交回復の立役者
―松雲大師(四溟堂)惟政と徳川家康」 仲尾宏氏※終了しました
② 11月9日(土) 「日朝の墨戯の交わり」 山下善也※終了しました
③ 11月16日(土)「高麗茶碗と朝鮮通信使」 谷晃氏※終了しました
④12月14日(土)「誠信外交の実践者―雨森芳洲」 佐々木悦也氏※終了しました
(参加費用)ひとり1,500円(入館料含む) (定員)各回50人
事前予約制(高麗美術館研究所℡075-494-2238まで)
【主な出品作品】
(1)文禄・慶長の役と国交回復まで
■文禄の役1592年.慶長の役1596年.1604年
文禄・慶長の役後、戦役による痛手を負った朝鮮側の怒りを和らげ、両国の関係を改善するのは大変困難でした。そうしたなかで、1604年「探賊使」という名目で朝鮮僧・松雲大師惟政が対馬に派遣され、翌年3月に京都・伏見で徳川家康と面会します。年末に入洛し、家康との面会まで上京区の本法寺で家康を待ちます。この間に、秀吉の側近で外交文書を作成していた相国寺の西笑承兌をはじめとする京都五山の僧侶たちと漢詩文による筆談や唱和をもって交流する機会を持ちました。承兌は松雲大師の仏儒両道の博識さ、詩文、墨蹟の流麗さに賞賛することしきりでした。このような交流が礎となって国交再開の道が開かれたと言っても過言ではないでしょう。このたびは京都滞在中の松雲大師の墨蹟や西笑承兌の文案、そして五山の僧侶らの『論語』等を講釈した李文長の賛がある海北友松、狩野山楽の墨画等の作品を関連作品として出品します。
姜沆・藤原惺窩 筆談 天理大学附属天理図書館蔵 1598年頃 |
墨蹟 有約江湖晩 紅塵已十年 白鷗如有意 故月近捕前 松雲大師 書 興聖寺蔵 1605年 |
鹿図 海北友松画 李文長賛 個人蔵 17世紀初頭 |
梅鵯図・太公望図・枯木猿猴図 狩野山楽画 李文長賛 個人蔵 17世紀初頭 |
■江戸時代の朝鮮通信使(1607年.1617年.1624年)
日朝の国交を正常化させるためには、足利時代の慣例を踏まえ、朝鮮国王の使命によって派遣された朝鮮通信使が徳川将軍と国書を取り交わすことが重要でした。朝鮮側から出された国交回復の条件は、まず日本から先に国書を送ることと、先王の墓を荒らした人物を送ることでした。日本と朝鮮のはざまで対馬藩は独断で国書を作成し、朝鮮側に送りました。これには日本側から国書を先に送ることが難しく、送れるとしても時間がかかるためでした。以後、国書の書き替えは発覚するまでの三度(1607年、1617年、1624年)おこなわれました。江戸時代初期の歓待において、京都の宿館は大徳寺があてられました。この頃はまだ緊張状態が続いており、文化交流を示す作例は希少です。大徳寺・龍光院に伝わる雲谷等顔画の瀟湘八景図には「梅庵」という人物の賛があります。「梅庵」は1624年に来日した朝鮮通信使写字官・李誠国の号で、この人物は1625年1月に龍光院で江月宗玩と面会しています。
瀟湘八景図屏風(平沙落雁) 雲谷等顔画 李誠国賛 龍光院蔵 1625年 |
(2)書き替えられた国書、その後
■以酊庵輪番制度の開始(1636年~)
対馬藩主・宗義成(1604~1657年)とその家老・柳川調興(1603~1684年)のお家騒動から、これまで秘密裏に行ってきた国書の書き替えが露見して、幕府外交上の大問題となった事件。この事件は時の将軍・徳川家光(1604~1651年)の親裁によって調興側を有罪とし、義成には引き続き朝鮮外交の任を与えました。事件当時、外交僧・規伯玄方(1588~1661年)がその罪を問われ南部藩配流とされ、調興も津軽へ流されました。この事件を機に京都五山から碩学僧が国書の書き替えが行われないよう、対馬へ派遣されることが慣例化しました。
達磨図 金明国画 尼崎市教育委員会蔵 1636年および1643年 |
鷺図 金明国画 林羅山賛 高麗美術館蔵 |
■朝鮮通信使と日本人「交流のあかし」
(1643年.1655年.1682年.1711年.1719年.1748年.1764年)
朝鮮通信使は首都漢城を出発し、釜山から対馬に渡り、対馬藩が同行して壱岐、相島、赤間関、上関、蒲刈、鞆の浦、牛窓、室津、兵庫、と舟で瀬戸内海を経て大阪へ。そこから川舟に乗り換え、淀川を北上し、京都に入りました。京都からは滋賀の朝鮮人街道、中山道、東海道を通過して、江戸を目指し、朝鮮国王の国書と将軍の返書の交換を行いました。江戸から日光にも遊覧することもありました。朝鮮通信使は正使・副使・従事官の三使を筆頭に、製述官、訳官、写字官、画員、医員、小童、馬上才、楽士などからなる総勢400~500人の大使節団でした。ソウルから江戸まで往復約3000キロ、半年から一年近くにおよぶ時間と出費をかけて旅をしました。朝鮮通信使の接待には西日本の大名が中心となって、ご馳走をこしらえ、酒をふるまいました。通信使は朝鮮国から選抜された学識と文化的素養の高い面々からなる使節団です。日本の文人達は競って墨書や画を求め、詩文唱酬で歓待したといいます。
林羅山は、その優れた漢詩文によって、朝鮮通信使接待において6度も接遇の機会を得ています。画員の金明国の描いた鷺図にも着賛しています。その他、金義信、韓時覚などの墨蹟や絵画、徳川家光が描いた立鶴の下絵を朝鮮の釜山へ発注し、取り寄せた御本立鶴茶碗。朝鮮通信使の判事「判使(はんす)」といわれる高麗茶碗など、朝鮮通信使ゆかりの作品が今日にまで伝わっています。長く、京都で大切に保管されてきた朝鮮通信使関連の作品の数々をご覧ください。
墨蹟「妙喜庵」 金義信書 妙喜庵蔵 1643年 |
墨蹟『朝鮮人詩歌帖』「長恨歌」「月」 金義信ほか書 大和文華館蔵 17世紀 |
御本立鶴茶碗 (釜山窯) 伝来「小堀遠州→三井祟清→吉見喜斎→竹屋中兵衛→尾本源吉郎→中村雅契→野村得庵」 野村美術館蔵 17世紀 |
布袋図 韓時覚画 高麗美術館蔵 1655年 |
川蝉図 韓時覚画 大石内蔵助の詩文 後賛 岩屋寺蔵 1655年 |
松虎図 咸悌健画 個人蔵 1682年 |
双雉図 洪世泰画 尼崎市教育委員会蔵 1682年 |
朝鮮小童図 英一蝶画 大阪歴史博物館蔵 1711年 |
寿老人図 李聖麟画 金啓升賛 尼崎市教育委員会 1748年 |
樹下人物図 曽我蕭白画 真浄寺蔵 18世紀 |
山水図 金有聲画 梅荘顕常賛 両足院蔵 1764年 |
版画 山水図 金有聲原画 「甲申暮春朝鮮西巌為日本邉瑛写」 尼崎市教育委員会蔵 1764年 |
金有聲宛て池大雅書簡・・・富士山の画法を問う手紙 個人蔵 1764年 |
■対馬での易地聘礼(1811年)
最後の朝鮮通信使は対馬での易地聘礼となりました。これまで莫大な費用を投じて行われた朝鮮通信使接待でした。相次ぐ天災や飢饉に見舞われ、幾度も延期され、約半世紀ぶりに実現した朝鮮通信使の来日でした。対馬府中には佐賀藩儒者の古賀精里をはじめとする多くの文化人が集められ、朝鮮通信使との詩文唱酬などによる交流の機会が持たれました。対馬での歓待ではありましたが、慈照院(京都)には1811年の朝鮮通信使が書き残した多くの詩文や絵画が伝えられています。また、京焼の名工・仁阿弥道八は「御本立鶴茶碗」をモデルとした茶碗を焼いています。
富士に蓬萊山図 李義養画「倣谷文晁画」 個人蔵 1811年 |
寿老人図 荷潭画 古賀精里賛 大阪歴史博物館 1811年 |
詩文絵画貼交屏風 一双 秦東益ほか 慈照院 1811年 |
御本手立鶴茶碗 (京焼) 仁阿弥道八作 正傳永源院蔵 江戸時代19世紀 |