2003年夏季企画展「朝鮮の美術 -白磁との出逢い-」2003年7月4日(金)~9月28日(日)
 

耽羅大総地図 41.4×36.5(cm)

開催にあたって

李朝白磁のもつ魅力は、だれもが感じることのできる素朴さにあるといえます。 まっしろななかに力強さ、ときに柔和なやさしさを感じさせます。 高麗美術館はそんなひとつの白磁壺との出逢いによって生まれた美術館であり、 今回の展覧会では「素」をテーマに、鄭詔文コレクションの第一号である白磁壺 を中心に近年、韓国・済州博物館にて展示された耽羅大総地図などもあわせて 公開し、朝鮮美術の一面をご紹介いたします。


開館情報

 ■会 期   2003年7月4日(金)~9月28日(日)
 ■開館時間   午前10時~午後5時  ※入館は午後4時30分まで
 ■休館日   毎週月曜日、但し祝日と重なる場合は翌日休館。  
 ■入館料   一般500(400)円、大高生400(320)円、小中生300(240)円

 (  )内は20名以上でご来館の団体割引料金です。
 また、事前のご予約にて団体解説も承っております。
 詳しくは高麗美術館(電話075-491-1192)まで。

 ■主な出展品  ・白磁壺(17世紀)
 ・白磁祭器(18世紀)
 ・亀形日時計(18世紀)
 ・鉄製銀入絲煙草箱(19世紀)
 ・竹製花鳥文筆筒(19世紀)
 ・冊架図(19世紀)
 ・耽羅大総地図ほか三幅(19世紀)  など約50点
  ※期間中一部展示替えがあります。

主な出品紹介


耽羅大総地図と瀛州(えいしゅう)十景図(縦41.4cm/横36.5cm)



「瀛州(えいしゅう)十景図」とは、済州島に残る十の名勝を主題として描いたものである。
 高麗美術館では<耽羅大総地図>のほか、<山房>(写真上段)・<翠屏潭>(写真中央)・<明月鎮>(写真下段)の三件を所蔵する。十七世紀製作のオリジナル※1を基に、後世になって描写したものが幾つかあると思われるが、その大半の所在が不明であり、現在確認されるのは当館所蔵のほか、韓国に四件のみである。
 すべて紙に筆墨で線を表し、そこに朱・青・黄の彩色が施され、描かれる名勝や周辺地理等の説明を画面上段に記す構成をとる。「遠・深・平」の三遠法を意識したのであろうか。いずれも俯瞰図ではあるが遠近法に捕われず、平面的に表現している。落款がないため、作者や製作年代はあきらかではないが、現存する八件のうちこの四件は、画法がより繊細で細かく、上段の墨書もかなり熟達した筆致で、全体が丁寧である。
 ここでの「瀛州」とは神仙の住む山を意味し、済州島の中心に聳(そび)え、朝鮮北部の白頭山に次ぐ高山である漢拏山(ハルラサン)(標高一九五〇m)をさす。漢拏山の頂上には火口湖の白鹿潭があり、そこから緩やかな傾斜を成す山麓が谷川を作り、海へと続く。漢拏山を中心とし、放射状に広がる名勝地を絵と文で表現したのが、この十景図である。
 朝鮮全図として有名なのは、十八世紀製作の鄭尚驥(チョンサンギ)による<東国地図>、そして一八六一年製作の金正浩(キムジョンホ)による<大東輿地図>であろう。しかし一四〇二年、中国明代に製作された<混一彊理歴代国都之図>が、現存する朝鮮全図のなかでは最古のものとされ、十五世紀初頭の地図学を見ることができる。
 では済州島がいつ頃から地図上に現れたのか。十五世紀以前の地図が皆無であるため、それを明確に言及することはできないが、遅くとも百済が耽羅※2を隷属国とする五世紀頃には、詳しい耽羅地図が製作されたと考えられる(「耽羅(タムナ)」は時代により「耽牟羅」「屯羅」「州胡」とも呼ばれた)。のちには朝鮮本土のほか、周辺国との頻繁な往来があり、情報の媒体となった地図は数多く製作された。特に高麗時代には倭寇による度重なる侵略を受け、さらに三別抄という対蒙勢力が最後の拠点地として済州に移動、抗争を繰り広げたが、高麗・蒙古連合軍によって討伐された結果、済州は約百年間、服属国としての複雑な道をたどる。この間、済州に関する地理情報を把握するため、地図が大々的に活用されたことは想像に難くない。
 表紙の<耽羅大総地図>は南を上向きにしており、朝鮮本土からの視線が如実に表されている。画面下半分は惜しくも紛失した。
 説明文には「島の環海幅員は四百八十里、東西百七十里、南北は七十三里であり、漢拏山を囲んで三邑、つまり北に済州牧・東西に旌義県・西南に大静県がある。島には九鎮(「鎮」とは要塞の意。写真3の<明月鎮>もこれにあてはまる)、二十五の烽燧(ホウスイ)(烽火台)、八十五の浦口があり、三十九の炬炱(煤煙で危険を知らせる施設)がある。果樹園と牧場が多く、かつて三別抄が築いた古城が残る…」とあり、また漢拏山からみる景勝地を距離で表している。
 農業や牧畜業、漁業が暮らしの糧である済州島に防御施設が目立って多いのは、済州の歴史が常に海の彼方からの来襲を意識したものであったことを示唆している。
 そして地図の南には小さな島嶼と、当時交流があったと思われる近隣国があり、左から「日本」「大琉球」「小琉球」「寧波」「交趾」「暹羅」と印される。つまり朝鮮本土、日本、琉球、中国、東南アジア諸国に囲まれ、東シナ海の中央に位置する済州は、特に他国との影響関係のなかで独自の歴史を築いてきたことが、この地図一枚に顕著である。
 済州島はその自然だけでなく、社会環境もすべて漢拏山を取り囲むように展開している。神仙の宿る山は済州島の文化そのものであり、今も済州人の心の真ん中に聳えている。

※1 瀛州十景図は朝天館・別防所・城山・西帰浦・白鹿潭・瀛谷・山房・明月所・翠屏潭・天地淵をいう。一六九五年、済州牧使であった李益泰(イイクテ)により製作されたと伝わる。
※2 三国時代には国名を「耽羅」とするが、十三~十四世紀、高麗の服属国となる際「済州」と改名。済州島という名称は二十世紀植民地時代の島制実施によるもの。一九四六年以降は島を「道」とし、現在に至る。
・写真上段 山房  63.5×36.0
・写真中段 翠屏潭 63.1×36.0
・写真下段 明月鎮 63.3×36.1(単位:cm)